親への感謝。猫との別れ。当たり前は失った時に奇跡だと気付く。

 

自分は甘い。甘すぎる。

 

薄い。薄っぺらい。

 

なにもわかっちゃいない。

 

自分ひとりでなんでもできると思って傲慢になっていたのかもしれない。

 

都合が良すぎるよ。

 

過去の自分が本当に恥ずかしくなる。

 

母親に酷いことを言ってしまった。

 

一人暮らしをしていると、いろんな時に母のことが思い浮かぶ。

 

洗濯をひとつひとつしていても、めっちゃめんどい。

でも自分の母はこれを家族6人分、毎日毎日休まずにずっっっっとやり続けていたんだなって。

 

飯作るのだって、自分一人分作るだけでもめっちゃめんどい。ほんとにめっちゃめんどい。。

やる気あるときはもちろん苦にならないけど、母さんはそれを毎日、くっそめんどい時もあっただろうに、毎日毎日献立も違うものを作ってくれていたし、野菜や魚や肉やいろんなものをバランス良く入れて美味しく作ってくれていた。

 

実家にいるときは、それがごく当たり前になっていて、本当に何も感じずに、家にいれば自動的にメシが出てくるもんだと勘違いするほど感覚が麻痺していた。

 

だけど、一人暮らししてみて、初めてその大変さを実感した。

 

素直に、母さんめちゃくちゃすげえなと思った。

で、母さんは本当は褒めてもらいたかったんだと思った。

 

毎日自分が頑張って作った料理を、家族はみんな何も言わずに当たり前のように食べるだけで、その後の片付けだっていつも母がやっていたのだなって。

 

「おいしい。ありがとう。」って、その言葉が欲しかったんだと思う。

 

でも、自分の家族はみんな不器用で素直じゃないところがあって、恥ずかしがり屋だから、普段みんな何も自分の感情を素直に言わない。

 

母は、そんな毎日に寂しさを抱えていたのかも知れないなって思った。

 

母も素直に家族に頼るような性格じゃないし、自分の気持を抑えて平気なふりをするような性格だから、みんなそれが当たり前だと思って気が付かなかったんだと思う。

 

気が付いても、みんな毎日の生活に手一杯になって、身近な当たり前な日常への感謝の気持ちなんて忘れてしまっていたんだと思う。

 

「相手の立場になって考えてみる」

それが出来なかった。

 

もし自分が母の立場だったら、母と同じ様に、ふてくされてしまうと思う。

そして、なんでふてくされているのか、なんて理由は意地でも言いたくないと思う。

 

本心は、「毎日頑張って料理しているのに、誰も感謝するどころか当たり前のようにしているのが寂しい。」という気持ちになると思った。

 

でも、そんなの世間一般の「母」という存在の「常識」みたいなイメージがあるし、そこに対して文句や不満を家族に素直に打ち明ける気にもなれなかったんだとも思う。

 

そう、だからこそ、普段の母の不機嫌だったり、ぶっきらぼうになりだしたり、平気なふりをしていたと思ったら急に爆発して感情的になったり、ということがあったのかなって思った。

 

我慢していたからこそ、ぶつけようのない怒りや寂しさが溢れて隠せなかった場面がたくさんあったのかなって。

 

自分はそんな母の気持ちを、同じ立場になって考える配慮がなかったから、自分勝手な感情を母に一方的にぶつけるだけで、母の本当の気持ちを聞こうとはしていなかったのだとも思った。

 

でも、自分の気持ちもたしかな本心だった。

母の自己満で子供は振り回されていた時も確かにあったし、世間体や周囲からの評価を気にして、子供をコントロールしようとしていたこともたくさんあったのは事実だった。

 

でも、母だって一人の人間であり、完璧でないのは当たり前なんだと気が付いた。

 

自分自身もわからないことだらけなのに。

母だって、ましてやネットや情報の普及していない時代から、いろんなものを試行錯誤して手探りで子供4人の子育てに進んでいくしかなかったんだと思う。

 

そんな母に、「親の自己満足のために無責任に無計画に子供を産むから、後で子供が苦しむことになる」なんてことを思ったこともあった。

 

でも両親もわからないことだらけで、そして劣等感だらけで、両親の親からいろんな価値観を受け継いでもがき苦しんでいた部分もあったのかなって。

 

自分自身が今現在そうであるように、両親だって親への不満が潜在意識に染み付いていて、その穴を埋めるために、子供を使って不満を埋めようと無意識に行動していた部分もあったのかなと思ってしまった。

 

 

とにかく、親も一人のただの人間でしかない。ということ。

「完璧な親」なんて一人もいないのかもしれない。

 

なにが正解なんてないからこそ、親も親でいろんな苦しみの中で必死に子供と生きていたのだと思う。

 

部屋を見渡せば、人は一人で決して生きていけないっていうのがすぐにわかる。

今文字を打っているパソコンだって誰かが作ったもの。

机だって、スマホだって、電気もガスも水道も服も家自体も。

全部誰かの手で作ってもらったものを、お金というものと引き換えに得ているだけ。

 

顔も知らない誰かのおかげで今日も不自由ない生活ができている。

 

でも、これって当たり前に感じてしまっているけど、ホントはめちゃくちゃすごいことなんだなって。

 

当たり前に感じてしまうのが当たり前だけど、でも、たしかに誰かが頑張って行動して、いろんな過程を経て、自分の生活が支えられているんだなって。

 

 

だから、本当に自分はまだまだ甘いなって思いました。

 

なにも知らないガキだなって。

いつも自分が反抗してる大人たちに「託されている」ばかりで、なにも「託せていない」子供だなって。

 

ひとりじゃなんもできねーじゃんって。ホントに思いました。

 

甘いな。まだまだ甘い。本当に。

 

気を抜くと、すぐに感謝を忘れてしまう。

 

当たり前じゃないんだなって。

 

 

 

自分の中で一番大事存在だった「愛猫チビタ」。

2019年10月8日に、逝ってしまいました。

 

小学校低学年の頃からずっと一緒だった家族の大事な一員でした。

 

16年近く一緒に生きてくれました。

 

大好きでした。

 

本当に寂しいです。

 

もう一生会えません。

 

もう一生、あのかわいい顔を見ることが出来ません。

もう一生、触れません。

もう一生、なでられません。

 

声も聞けないし、辛い時にそばにいてくれる存在がいなくなってしまいました。

 

一番の理解者みたいな大事な存在だったのに、もういません。

 

自分が鬱で死にたいと思っていたとき。

自分の体の悩みを誰にも話せなくて辛くて部屋に引きこもっていたとき。

人間のちっぽけな悩みなんて全く気にしていない、動物のまっすぐな眼差しに何度救われたか。

 

あいつはいつも変わらず、自分が小さい頃からずっと変わらずにそばで癒やしを与え続けてくれました。

 

どんなことがあっても与え続けてくれる存在が、当たり前になっていました。

 

でも、猫も死ぬときはあっさり死んでしまう。

 

あっさりと、一生会えなくなる。

 

家に帰ったらいるのが当たり前だったから、気が付かなかったけど、

あの小さな猫の存在が、自分の中でどれだけ大きな存在だったか。

 

 

また、いなくなってから気がつく。

失ってから気がつく。

 

 

ほんと甘いです。

 

 

ほんとうにイイヤツでした。

いい友達であり、かけがえない家族であり、親友のような存在でした。

 

ニャースもフーちゃんもコタローもチビタもいなくなってしまった。

 

置いてかないで。一人にしないで。

って思いました。

 

お前がいなくなってしまったら、オレはどう生きていけばいい?って本気で思いました。

 

 

それだけ大事な家族だったから、本当に、今でも家に帰ったらいるのではないかって思ってしまいます。

でも、もう一生会えない。

 

わかってたし覚悟していたけど、やっぱり信じられなくて、喪失感が凄まじいです。

 

 

でも、本当に感謝しかないです。

猫が教えてくれたことはたくさんでした。

 

猫の自由でありのままの生き方が、すごい好きでした。

 

小学生の時、たまたま家の近くに捨てられていたあいつに出会えて、本当に良かったです。

 

何度も癒やしてくれて、愛や死というものを教えてくれて、すごく感謝です。

 

ずっと大好きです。

ずっと大事な記憶として思い出として、自分の中に生き続けてくれるんだと思います。

 

自分のなかで、本当になにも気を遣わず素を出せる唯一の存在だったかもしれません。

 

そんな存在がいなくなってしまって、孤独を感じるけど、

でも、自分にはまだ家族がいるし、友達だってみんな生きてる。

 

生きてるってことは、まだ会える。

 

当たり前に感じるかも知れないけど、「会える」っていうのは奇跡なんだと改めて気付きました。

 

だって、もうどうやったってチビタには会えないから。

 

生きてる。会える。っていうのは、まだチャンスはある。

 

今は親に不器用にしか接することが出来ない。

友達からも逃げてる。避けてる。会う気になれない。

 

でも、本当は親にも会いたいし、仲良くなりたいし、友達とだって会っていろんな話がしたい。

 

昔の自分とは変わってしまったかもしれないけど、昔の自分も確かに自分の中に残ってる。

 

本心とは違う行動で自分の気持ちを隠してしまいがちだけど、少しずつ素直になれたらいいのかなって思えました。

 

チビタに会いたい。

けど、もう絶対に会えない。

 

でも、それでも進むしかない。

 

チビタのいない世界で、明日も生きていかなきゃいけない。

 

チビタに頼る心の依存から、卒業しなきゃいけない。

 

一人で進んで行かなきゃならないけど、自分にはまだ感謝を伝えられる人たちがいるし、生きてる。

一人だと思ってるだけで、実はいろんな人に支えられて生きているんだなって気がつけたから。

 

猫のように「嫌なものは嫌」「甘えるときは甘える」「好きなものはとことん好き」。

後悔しないように生きるには、そんな猫の様に自分に嘘をつかないような生き方で進んでいくのが良いのかも知れない。

 

動物と人間は違うけど、猫から教わるものは確かに多かった。

ありがとう。

 

 

少しずつ、もっかい少しずつ進んで生きたい。

 

まずは、もう一度自分の書いたブログを読み返してみようかな。

チビタ、ありがとう!

オレもう一度、目を背けていた部分に向き合って、ちょっとずつ進んでみようと思うよ!

 

後悔しないように生きて、死ねたら、また天国で思いっきり遊ぼうぜ!嫌がられても思いっきり抱っこしまくるからな!待ってろよチビタ!フーちゃん!ニャース!コタロー!

 

ありがとう!!!!

 

 

今日は、久々にありのままに気持ちを書くことができました。

読んでくれたひと、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

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